できました。
宮中雲子童謡集を作っていると話していたら、
作曲もするのですかと聞かれ、これは大変と、
“宮中雲子の詩による童謡曲集”としたのです。
絵は、古くからの木曜手帖の友人で、サンフラ
ンシスコ在住の八重垣孝子さんのスケッチブック
から拝借しました。
楽譜を浄書してくださったのは、三木露風の
生誕の地、兵庫県たつの市“赤とんぼ館”の館長
を長くしていらした荒瀧俊彦氏です。
編集まですべての面倒を見ていただきました。
おたまじゃくしばかりなのですが、私のずっと
通しての詩を見ることができると喜んでくださる
方もあり、いろいろな見方がされるのを嬉しく
思っています。
「夢を描いて」というタイトルは、童謡歌唱
コンクールのテーマソング「夢を描いて」の詩を
私が書いていることによります。
夢を描いて
宮中雲子
童謡のための詩を
六十年近く紡ぎ続けてきて
いつかは編みたいと願っていた童謡曲集
あちこちに ちらばっている譜面を
拾い集め
これはと思うものに絞って五十五曲
馴れないおたまじゃくしとの
にらめっこには疲れたけれど
やっと完成した
それぞれ産みの苦しみを
味わいながらの作品
どの曲も 頭の中で
メロディを展開できる
愛しいわたしの子供たち
]]>
抗癌剤で癌を小さくしてから手術をする
という。手術の成功を祈るしかない。
見舞いのカードに
宮中雲子
折り紙の鶴で作った
カード立て
癌で入院した友人を見舞い
元気で戻って来てと
カードに書いて
枕元の棚にのせる
抗癌剤投与で
髪の毛を失い
辛い治療に耐えながら
早くよくなって詩を書きたい
詩集も編みたいと訴える彼
その日が来たら手伝うよ
いい詩集を作ろうね
力を込める私の言葉に嘘はない
カード立ての鶴に
目で伝える
彼を見守っていておくれ
頼んだよ
]]>東京から、四国のわが家へ疎開して一緒に暮らして
いましたので、自ずから従姉妹とは姉妹さながら。
戦後、私は叔母の所から大学へ通っていたので
従姉妹とも親しい暮らしが続いたのでした。
お姉ちゃんはね・・・
宮中雲子
小さい頃から
姉妹のように育ち
私のことを お姉ちゃんと
呼んでいた従姉妹
八歳違いで
お互い 何の不思議も感じないできたが
私 八十歳
彼女 七十二歳
お姉ちゃんと呼ばれ
私も自分で お姉ちゃんはね…と
話していて
ちょっと変
でも 今更
呼び方を変えるわけにもいかないし…
]]>
そんなにしょっちゅう会っていたわけではないけど、たまに
会って近況を話すのが習わしになっていた人が、急にいなく
なって・・・
ひしひしと淋しさが
宮中雲子
パーキンソン病の症状が出始め
前につんのめって
いつ事故にあうかとの心配も
もうしなくていい
夜中に目が覚めて
話し相手がないのは淋しいと
かかってきていた電話
いつ起こされるかとの不安もなくなった
いい音楽会をみつけて
誘ってほしいと
いつも待たれている
気分的負担もなくなった
この世に別れを告げ
私を軽くしてくれた分
ひしひしと淋しさが…
]]>
第17回宮中雲子音楽祭が行われました。
合唱団によるコンクールの形式で、少年少女の部、
一般の部によって、各部共通の課題曲と
それぞれの自由曲が歌われました。
課題曲は毎年宮中雲子の作品で、今回は
「つづくといいな」作曲は湯山 昭氏。
湯山氏は審査員として音楽祭に参加されました。
つづくといいな
宮中雲子作詩
湯山 昭作曲
みんながいて
えがおがある
かぞくなかよく
すてきなきょう
つづくといいな いつまでも
つづくといいな いつまでも
なかまがいて
あそびをする
じかんをわすれて
たのしいあした
つづくといいな いつまでも
つづくといいな いつまでも
ことりがいて
さえずっている
はなもひらいて
へいわなみらい
つづくといいな いつまでも
つづくといいな いつまでも
]]>
母に相談したいのに
そんなことにはお構いなしで、
ふっと夢にあらわれ、ふっと去って行く母。
そちらから、助けてほしいのと訴え続けているのだけれど。
夢から覚めて
宮中雲子
あの世へ行っても
たまには帰ってくることがあると
夢にあらわれる母
もう あなたとは違う世界にいるのだから
何も言うことはないけど
平和に暮らしていることを
知らせておきたいと思って・・・
そ言う母は 若々しく
元気に働いていた頃の姿
老いた人や 病んでいる人ばかりでは
あの世も大変だから
働き盛りに戻して
受け入れているのだろう
永遠に年をとらない世界へ
行くとしたら
私は四十歳台で暮らしたいと
夢から覚めて 思っている
]]>担任だった。1年生の初めての冬、母は妹の入院に付き添って
隣町の病院へ行き、私は伯母の婚家先に預けられていたが、
手はひび割れ、ソックスは破れて、哀れな風体になった。
それに気付いたケヤコ先生は、ひび割れに薬を付け、靴下を
持ち帰って繕ってきてくださった。
母とケヤコ先生の墓
宮中雲子
母の墓の向かい側
新しい墓に入ったのは
母の小学校の同級生で
私が小学1年生の時の担任だった
井上ケヤコ先生
今は先生の息子さんが
宮中雲子音楽祭の実行委員を
してくれている
十数年を経て
彼岸で再会した 母とケヤコ先生
残してきた娘や息子のつきあいを
喜んでいるに違いない
音楽祭も 回を重ね
この頃は墓参りも
音楽祭で帰省した時だけになり
来年も 音楽祭で
帰省することが出来ますようにと
母とケヤコ先生の墓に
しっかり 手を合わせる
*2005年の作品。ケヤコ先生の息子さんも昨年亡くなられ
墓の中の人々に、感謝の祈りをささげるばかり。
]]>
なくなっていたのですが、故郷の土地の相続を
何とかしなければと・・・終活を考え始めた
せいでしょうか。
夢から覚めて
宮中雲子
あの世へ行っても
たまには帰ってくることがあると
夢にあらわれる母
もう あなたとは違う世界にいるのだから
何も言うことはないけど
平和に暮らしていることを
知らせておきたいと思って・・・
そういう母は 若々しく
元気に働いていた頃の姿
老いた人や 病んでいる人ばかりでは
あの世も大変だから
働き盛りに戻して
受け入れているのだろう
永遠に歳をとらない世界へ
行くとしたら
私は四十歳代で暮らしたいと
夢から覚めて 思っている
]]>三瓶小学校は私の母校で、昭和40年に校歌を書かせて
もらいました。校歌の作曲者は伊藤翁介先生でした。
その後、児童数が減り、4校が統合されることになりました。
今回はそのご子息・伊藤幹翁氏の作曲で、親子2代に
作曲してもらうことになりました。
NHK松山が統合される小学校を巡る旅という番組を制作。
三瓶もその一つとして登場、ナビゲーターは歌手の
秋川雅史さんで、三瓶地区は私も一緒に巡りました。
ローカル番組として放送されたのですが、
6月18日(水)全国放送されることになりました。
“ローカル直送便“で午後3時15分から45分間です。
西予市立三瓶小学校校歌
宮中雲子作詩
伊藤幹翁作曲
潮の香りに 包まれて
吹いてる風も やわらかい
人の出会いを 大切に
明るい笑顔を わすれない
三瓶 三瓶 三瓶小学校
夢のはばたく 大空は
いつでもみんなの 上にある
強い心で たくましく
明日をめざして 生きていく
三瓶 三瓶 三瓶小学校
山の緑に 囲まれて
未来に希望を かかげてる
かたい絆で お互いに
励ましあって 伸びていく
三瓶 三瓶 三瓶小学校
]]>
実家。
管理してくれていた人から、もう無理と言われ、早急に
整理しなければならなくなった。
かといって、整理は容易ではない。先ず立ち向かう
決心を、自らに課すのだが・・・。
受け継ぐ責任
宮中雲子
亡くなった母に代わって
いつも私を待ってくれていた実家
管理していた人も高齢になり
畳まざるを得なくなった
母に至るまでの先祖代々の位牌
東京の狭い部屋のどこに
仏壇を作ればいいのだろう
叙勲を受けた母の勲章や賞状
母の思い出にまつわる数冊のアルバム
考えただけで 収納に
立ちはだかる不安
しかし 私が生きている間は
受け継ぐ責任を
しっかり果たしていかなければ・・・
]]>きれいな水彩画も添えてある、移転通知のハガキが
きました。遊びに行きたいすてきな風景です。そこで
差出人の名前を探したのですが、表にも裏にも書いて
ありません。あぶり出しでもないようです。
電話をしてみたのですがお留守です。ハテナ ??の
二日間が過ぎて、やっとつながりました。少しご無沙汰の
続いている知人とわかったのですが…しばらく話しても
名前が出てきません。
そこで、とうとう聞きました。あなたはどなた?
あなたはどなた
宮中雲子
引越ししたと
知らせるはがき
住所はきちんと
書いてあるのに
名前がないよ
誰からだろう
緑がきれい
遊びに来てと
電話番号も
書いてあるのに
名前がないよ
困ってしまう
電話をかけて 聞いてみよう
あなたは どなた
]]>思っているうち、東北地方を襲った大津波ですっかり流さ
れてしまいました。残念と諦めていたら、復活されたのです。
茨城県天心記念五浦美術館で「佐藤太清生誕100年展」
(2004年4月13日まで)が開催されているのに合わ
せて出掛けました。
記憶の中の北斗七星
宮中雲子
露天風呂に浸って
見上げる空
「あら 北斗七星」と指差され
その方に目を凝らしても
私に星は見えない
白内障の手術で
視力を生活圏にあわせたから
裸眼では見えなくなった遠方
小学生の頃
まっ先に覚えた北斗七星
その七つ星の形ときらめきは
私の脳裏に 今もくっきり
温泉の湯気の向こう
暗い空に
記憶の中の北斗七星を嵌め込む
]]>正直 、 私は仕覆がなんであるか知りませんでした。
ほど経て、作れるようになったので、作ってあげる
から茶碗を貸してほしいと 言われ、とりあえず
日頃使っている抹茶茶碗を渡したのでした。
その後、仕覆が大切な茶入れの壺やお茶の道具を覆う
ものと知って、恥じ入ったのでした。
一段の格上げに
宮中雲子
仕覆で覆うほどの
茶碗ではないのに
友人が作ってくれ
仕覆に納まった茶碗
手近なところに
無雑作には置けなくなって
どこに置こうか 考える
ちょっと一服と思うたび
恐れ多い気持ちになって
居住まいを正す
作ってくれる人がいなければ
仕覆に覆ってもらうことなど
ついぞなかった茶碗
一段の格上げに
茶碗も
途惑っているのではないだろうか
]]>
今日が七草粥を炊く日と報じているのを聞いて、
母の命日が七草粥を炊く日だったことに気付いたの
でした。
七草粥は母と共に
宮中雲子
七草粥を炊かなかった年
それは母が亡くなった平成四年一月七日
その日が 七草粥を炊く日と
思い出すこともなかった
呼吸補助装置がはずされ
母の遺体を拭き清め
遺体がわが家に帰り
長年暮らし慣れた
家の座敷に
母は静かに横たわっていた
顔にかけられた白い布
母はその下に居るのに
すでに もうそこには居なかった
それ以来
一月七日は母の祥月命日
七草粥は わが家から消えたまま
]]>秩父の夜祭りに出かけました。日本の三大曳山祭りの
ひとつです。昼間の屋台も見事でしたが、夜の花火と
提灯に飾られた屋台の素晴らしさ。夜が更けるにつけ
厳しくなる寒さにもめげず、6台の屋台が秩父公園に
時間をかけて戻ってくるのを楽しんだのでした。
屋台を応援―秩父夜祭り―
宮中雲子
深夜
明々と提灯で飾って
戻ってくる屋台は
団子坂の急勾配に阻まれ
何十人もの
屈強な男達が
懸命に引いても 動かない
桟敷席で見守る人々の
ガンバレ!
の大合唱は
まるで運動会の綱引きさながら
冷え込みの増す夜更け
打ち上げ花火の破裂音も
上り坂で喘ぐ屋台を
応援するかのよう
仲の良い夫婦は、連れだって逝くということなのでしょうか。
来る時が来た
宮中雲子
三年も寝たきりだった
兄嫁の危篤は
来る時が来たとの思い
口から食べ物を取り込めなくなって
食事のない日常は
どんなに淋しかっただろう
よくなったら お寿司が食べたい
と言っていたけど
その願いは ついに叶えられることはなく
三ヶ月前 旅だった兄が
あの世の暮らしにも馴れて
つれあいを迎えに来たのだろうか
来てほしい気持ちは大きかったのですが、外れたときの
失望を思うと、だめかもしれないと自分に言い聞かせて
いたところがありました。1回目にマドリードが落ちた時
もしかしたら、いえ、そんな事は考えない方がいいと…
朝になればわかるのだからと、寝たのですが、3時に目覚
め,とうとう5時15分の東京決定をテレビで見たのです。
嬉しいと思いましたが、そのあとですぐ、7年後が気持ち
にひっかかりました。
号外を手渡されて
宮中雲子
オリンピック東京開催の号外を
駅前で手渡され
60票が東京
イスタンブールは36票
大差で勝ったことに感じる喜び
でも 東京でのオリンピックは七年後
その間に
開催を危うくする大きな地震はないか
金融恐慌は起こらないか
それより 自分が元気でいられるか
どっと押し寄せる不安
七年という年月が
とてつもなく遠く
脆いものに思えてくる
会長の私は、時折、新居浜へ出かけます。同じ愛媛
でも、新居浜と三瓶では、松山をはさんで正反対。
そんな時、母にすまない気持ちを覚えるのです。
母さん帰ってきましたよ
宮中雲子
松山空港に降り立つと
わっと寄ってくる懐かしい空気
ちょっと海の香りのまじった
やわらかな肌ざわり
西へとれば故郷
でも 今回は仕事で東へ
母の眠る三瓶を訪ねないまま
愛媛の土を踏んでいる心苦しさはあるが
「母さん 帰ってきましたよ」
町に女学校が出来ると、母は父母の反対を押し切って、二人の妹を女学校へ通わせ、その妹たちは女学校から師範学校へ進み、二人とも小学校の先生になりました。
やっと家から解放された母は、四国を出て、九州医大付属の看護学校で学ぶことが出来たのです。
そこで母は、医学生だった父と結ばれました。
迎えに行くから実家で出産するようにという父の言葉を信じて、四国の実家で出産したものの、父の方の家庭の事情で結婚は出来ませんでした。
その頃、母のすぐ上の姉は、男の子がいる再婚の人と結婚して東京に住んでいました。
私はその伯母夫妻の実子として入籍され、おにいちゃんが出来たのです。おにいちゃんも私も、伯母をおかあさんと呼んで一緒に暮らしていました。
それは、母が四国の故郷に職を得て、暮らしが安定するまで続きました。
私が小学校に入る少し前、伯母は言いました。
「これからは、信子おばちゃんをおかあさんと呼ぶのよ」
そうして、私は四国へ行ったのでした。
中学へ進学したものの、満足できなかった私は、おにいちゃんに迎えに来てもらい、東京の中学で3年間を過ごしました。ここで素晴らしい先生や友人と出会うことが出来たのです。
7月17日の早朝、突然おにいちゃんは帰らぬ人となりました。
おにいちゃん
宮中雲子
一緒に遊んでいて
ふっと姿を消し
私を不安がらせた おにいちゃん
うまくかくれていて
“うわっ!”と顔を出し
私を驚かせた おにいちゃん
いつだって すぐに出てきて
私を嬉しがらせたのに
もう 柩の中で目を閉じたままの おにいちゃん
年を重ねるにつれ
おにいちゃんは 兄さん 兄貴と
呼びかたは変わってきたけれど
今 柩の中に収まっているのは おにいちゃん
たった一人の おにいちゃん
また なにかいたずらを考えて
仕掛けてきそうな おにいちゃん
]]>